総合鑑定士「いとうゆみ」の自己紹介
はじめまして!
愛知県名古屋市在住、生まれも育ちも名古屋。
今流行りの名古屋弁の早口言葉も大得意!
(キットカットの早口言葉、ご存知ですか笑?)
いとうゆみと申します。
総合鑑定士として現在はオンラインや対面などで活動をしています。
鑑定だけではなく、それまで培ってきたもので講座も構築し、生徒さんたちに楽しんでいただいています。
はて?総合鑑定士とは?
オンラインで何をしているのか??
なぜそんな仕事に就くようになったのか???
そのあたりを自己紹介も兼ねて
ジェットコースターのような人生について書かせていただきます。
お付き合いいただけましたら幸いです。
Contents
目立ってはいけない!
私は4人家族で、両親と2歳上の兄がいます。
兄は感情が爆発してしまうタイプの子供だったため、きっと母も手を焼いていたのでしょう。
いつからか母の私への口癖は
「あんただけでも良い子にしていて。」
でした。
また、母自身が田舎の出身でそう育てられたからなのか、自分の中の理想とする妻や母親像というものがそこだったのかは分かりませんが
「女なんだから目立たなくて良い。
女はそんなに勉強頑張らなくて良い。」
とよく言われていました。
そのため、勉強を強いられることはありませんでしたが、塾へ通って勉強したい、という要望も通ることはありませんでした。
また、私自身も我の強い部分があったからこそ、余計に母が私を押さえ込もうという気持ちも強くなった原因のひとつだったかも知れません。
そんな我の強さは正義感の強さにも繋がり、クラスの中の理不尽やいじめなどに黙っていられなくて、ついつい顔を突っ込み、逆にターゲットにされることもありました。
そういった経験の繰り返しから
目立たないこと
自分から前に出ないこと
自分の意見を出さないこと
が自分の考えのベースになり
目立つこと=悪いこと
という図式が出来上がっていきました。
その図式は随分と長いこと定着され、いつからか自己評価の低さ、自分自身を丁寧に扱わないことにもつながって行きました。
母の圧からの脱却=結婚
私は高校3年生になると大学を県外へ進むことを密かな希望として抱くようになりました。
今思えば、母からの呪縛から脱却したくて無意識のうちに家から出ることを選択肢としていたのかも知れません。
ですが、家から出ることは頑なに拒否され、大学へ進むこと自体、良い顔をされませんでした。
母としては、いつでも自分で自分自身の分身でもある娘の存在や行動を、しっかりと見られる位置に置いていることが、安心で幸せな形だったのだと思います。
そしてそれが、私のためでもあると思っていたのかも知れません。
大学へ進学させてもらう代わりに、地元の、家から通える範囲の学校へ行くこと・受験料が安く済む指定校推薦を取ることを条件として進学を認めてもらえたので、家から出て自立するということは断念せざる負えませんでした。
自分の一番に目指したかった道へ進めなかったことは小さなしこりとなり、大学へ進むと周りとの温度差も感じるようになったことで、徐々にその毎日に違和感を覚え始めます。
そして、そんな毎日の中で、小学生の頃から私の寂しさや悲しさ、我慢を全部受け止めてくれていた愛犬・メリーが亡くなってしまいました。
なんの前触れもなく、突然に体調を崩し、あっという間に空へ戻ってしまいました。
そのことをきっかけにして
今の時間は当たり前に続くものではない
なぜ生きるのか
生かされている理由とは
そんなことばかり考えるようになりました(病んでいたと思う笑)。
思うようにいかない毎日に、自分らしく生きていくための理由をつけたくなっていたのかも知れません。
そして、メリーの異変に気がつけなかったことは私の中で大きな後悔となり、メリーと共に暮らしていたラブラドールのマロンの異変に気がつけるようになりたい、という思いを収めることができなくなり、大学を中退することを決意します。
トリマーや動物看護士の資格を取れる専門学校へ通い直そうと考えたのです。
母からは猛反対されましたが、何になりたい!こう生きていきたい!と言える娘さんは素晴らしいですよ。と中退の相談をした担当教授が間に入って母を説得してくれたこともあって、私は自分の意志を貫けるようになりました。
自分の考えで選んだ、自分の納得できる道。
毎日が本当に楽しくて、さまざまな年代の友達と過ごしながら、自分の目標や夢に向かって着実に歩んでいく毎日はとても充実していました。
そして、学校に在学中から念願の動物病院で働けるようにもなりました。
ですが、そこは人間関係があまり良くなく、精神的に疲弊していき、自律神経失調症と診断されるまでに追い詰められていきました。
そんなにしんどいなら、病院を変える、転職する、などの道もあったでしょう。
ですが、母の反対を押し切っての中退して選んだ道。
その当時、仕事で躓くことがあると決まって「大学なんて辞めるから」「自分で選んだ道なんだから仕方ないじゃない。」という言葉を言われていたので、精神的に追い詰められても母に相談するという気持ちは出なかったため、病院を辞める、別の病院を探すという気力すらありませんでした。
家でも職場でも精神的に不安定な毎日だったからこそ、そこから抜け出すことをいつも願っていたように思います。
そして、その抜け出す術に【結婚】という選択が出てくるようになりました。
なぜかというと、大学進学時に「結婚するまでは家にいなさい」と言われていたから、無意識のうちに、ここから脱却することは結婚するしかない、そんな風に考えていたのだと思います。
なので、早々に結婚することで、【目の前の辛いことから逃げる】という道を選んでいたのだと思います。
向き合うのではなく、逃げること。
どうせ自分が何を言っても聞いてもらえない、現状は変わらない。
そんな思考の癖が強くなっていたのですよね。
母にも、職場の人の気持ちにも向き合うことから逃げてしまっていました。
一時は楽になったと思ったその生活も、その後、とんでもない状況になっていきます。
昼ドラ並みの不運が続く結婚生活
優しく、私の本心に心から相談に乗ってくれる人だと信じていた人と結婚したのは24歳の頃。
今にして思えば、「この人と結婚したい」のではなくて「結婚がしたかった」のですよね。結婚さえすれば、母のいる家から出ることができる、その道しかないと思い込んでいたからです。
そして、自分の気持ちを聞いてくれる人、というだけで「優しい人フィルター」をかけていたようにも思います。
そんな潜在的な思いがあっての結婚生活は、蓋を開けてみたらとんでもないことの連続でした。
元旦那はギャンブル依存症で、そのための借金を繰り返しており、それを営業職というのを隠れ蓑にして上手に誤魔化しているような人でした。
なぜ結婚前に気がつかなかったのかというと、そのギャンブルはなんと仕事中にしていたんです。
そして、その膨れ上がった借金の存在に気がついたのは、長女を出産した日、出産後2時間後くらいのことでした。
偶然が重なって、思わぬ形で元旦那の借金が発覚します。
その額で、車が一台簡単に買えてしまうような金額で、まだ若かった私には途方もない金額に感じられました。
ですが、当時の私は石橋を叩いて渡る性格だったので、出産に備えてしばらく私が働かなくても良いようにと貯金をしてありました。
私はここで大きな間違いを犯します。
誰にも黙って娘の父親になった人のために、これからの生活のために貯蓄しておいたお金を使って借金を肩代わりする、という選択を取りました。
娘のために離婚できない、娘には両親揃っていることが幸せだ(これも母の思考が根強くあったと思います)、ならば誰にも相談しないで穏便に済ませよう
と思ってしまったのですよね。
これは、借金している人に対して最もやってはいけないことだったんですよね〜。
また、借金を返すために使ってしまった貯金を取り戻すという名目で、毎晩アルバイトへ行くようになった旦那。
本当に行っていたのかは謎でしたが、生まれたばかりの娘と昼夜問わずふたりっきりの子育てがスタートしました。
娘は初期吐乳と呼ばれる症状があったので、飲んだものをほぼ全て噴水のように吐き出してしまうので、四六時中空腹で泣いているような赤ちゃんでした。
さらに旦那は一見落ち着いたように見えましたが、前述のように仕事の間にギャンブルへ行ってしまって作った借金だったので、私は娘とのほぼ眠れない時間なども重なって、どんどん精神的に追い込まれていきます。
今も借金作ってギャンブルしているのではないだろうか
そもそも本当に働けているのか
また嘘ばかりで塗り固めているのではないだろうか
そんな不信感でいっぱいでありながら、そんな感情を持つこと自体に罪悪感を感じて、理解のある妻や母であろうと自分を偽り続けました。
そんな折、娘には兄弟が必要だと思うという言葉を鵜呑みにして、2人目を妊娠中、2度目の借金が発覚します。
ギリギリの精神状態の中、妊娠中という普通ではない状態だったことも重なり、自分の中でそれまでピーンと貼り続けていた糸が切れる音がして、離婚を決意します。
ですが、娘と一緒に頼れる場所といえば実家しかなく、娘を連れて実家に戻ってみたけれど、案の定、子供には父親が必要だと言われて離婚を反対されてしまいます。
さらに、義実家は息子の作った借金に無関心を貫き通していたので、私の残りの貯金と私の両親にお金を借りて2度目の借金を返済してしまいました。
私の親にもバレたことだし、これでもうきっと辞めてくれるだろう、と信じていました。
精神的に極度に追い込まれながらも、娘のためだけに、娘の存在だけが自分がそこに生きる意味になっていた、そんな期間だったようにも思います。
そんな子供たちのために残しておきたかったお金まで使い果たしてしまったので、父の会社で娘をおんぶしてアルバイトさせてもらったりと、日々を忙しくすることで今起きている問題を見ないようにして過ごしていました。
それと同時に、そこからの数年の間に、長女の発達の問題が見つかり療育に通うことになったり、生まれた長男の目に稀な先天性の問題があると2歳頃に気がつき、あちこちの病院を通院するような出来事もあり、必死な毎日でした。
子供たちの前では喧嘩することは絶対にしませんでしたが、心の底では相手への信頼度はマイナスになっていて、できる限り顔を合わせないようにする毎日。
元旦那がどこで何をしているのかすら、知ることすらない・知ろうともしない、そんなような毎日が数年間続いたのち、3回目の借金が発覚します。
どんなに嫌でも、両親が揃っていることが子供にとってベストなことだと思っていた私でしたが、この借金発覚で目が覚めるような感覚になりました。
常にピリピリしている母親でいるよりも、生活が大変でも心から笑っている母親でいたい。
その思いが固まり、両親になんて言われても離婚する覚悟を決め、アパートを探して引越しの段取りまでつけてから報告しました。
晴れて、子供と3人だけで笑顔に過ごせる日々を手に入れたのです。
起きることは内側から出たもの
借金や不仲な毎日の渦中にいる間は
「どうして私ばっかり…」「なんでこんな目にばかり遭わなきゃいけないの」
そんな考えばかりが頭にあって、起きることは全て外からもたらせているとばかり思っていたのです。
けれど、親子3人だけの生活になった時に、本当に晴れ晴れとした気持ちになって毎日が楽しくなったんです。
お金は、本当にありませんでした。
毎日電気代や食費を節約するのに一生懸命でしたけど、その中で買える古本で勉強をしながらこの先の未来へワクワクした気持ちで満たされるようになりました。
そうすると、毎日出る言葉も自然と変わっていきました。
楽しいね、嬉しいね、ありがたいね。
そうすると、またさらにそんな言葉を使いたくなるような出来事に恵まれるようになりました。
どんどん周りで起きる出来事も変わり始めました。
自分が満たされていくことで、起きる出来事が変わり始めたのです。
その時にふと思ったのです。
あの頃の苦労ばかりの私自身はどうだっただろう、と。
お金がない、誰も分かってくれない、どうせ理解されない、助けてもらえない
ないないない
ないことばかりに目を向けて、周りを恨み、自分の状況を憂い、下ばかり向くような気持ちで過ごす。
言うなればコップに水を注いでも注いでも、穴の空いたコップで満たされることは永遠に来ない。
そんな状態だったと思ったのです。
自分の可能性を信じること、今あることに感謝すること、与えられるのを待つのではなく自分から手を伸ばすこと、そして、今目の前にいる相手に何を届けられるのかを考えること
そういった気持ちが欠落していたのです。
けれど、子供たちとの満たされた毎日の中で気持ちが変わって行ったことで、神様のご褒美のような出会いがあり、今の主人と新しい家族を再構築することができるようにもなりました。
末っ子にも恵まれて、家族5人で幸せな日々を送ることができるようになりました。
私自身以上に、私のことを大切にしてくれる人がいるということで、気持ちも生活も安定していきました。
再婚して7年ほど経った頃、乳がんが見つかりました。
以前の私だったら、どうしてまた私が…、なんて思っていたかも知れません。
ですが、私を大切に思ってくれている家族がいてくれていることで、必要以上にクヨクヨすることなく病気と向き合うこともできました。
もし万が一、私に何かあっても子供たちにはパパがいてくれる、なんていう心の頼みの綱があったことも、病気にしっかり向き合えるエネルギーを生み出してくれていたようにも思います。
この一連の経験は、私のマインドを整え強くしてくれ、以前は生きることに執着のなかった私が、生きることの素晴らしさと、喜びを心から感謝できるようにも変わりました。
そして、病気が落ち着きを見せ始めた頃、世界中にあのウイルスのパンデミックが起きたのです。
今の私にできること、という視点から誕生したオンライン講師!
皆さんの記憶にも新しいかとは思いますが、パンデミックの中、世の中の動きが全て止まりました。
その中で私が考えたことは、「今だからできることはなんだろう」というものでした。
パンデミックになる数年前に、私は友人に勧められて共に「数秘術」というものを学びに他県まで通っていました。
数秘術というのは、数字の持つ意味合いを学び、個人の特性や運気の波を数字から読み解いていくというものになります。
生まれた日に意味がある、という考え方で構築された統計学のようなものです。
学び始めたばかりの頃は、仕事にしようなどとは全く考えていなかったのですが、娘のことや自分自身のことなど面白いくらいに数字に特性が出ていたため、趣味として楽しんでいました。
それを、このタイミングでしっかり勉強し直そう、と決めたのです。
これまでの経験から、自分の内側を整えるためには自分自身を客観的に見ること、そして、自分自身をありのまま受け入れることが大切だと、体感していたからです。
周りの友人などと話していても、自分の中に「ない」ものを探して、満たされない気持ちで過ごしている人が多いと感じていたのも理由の1つです。
周囲の人と自分とを比べ、人の持っているものを羨ましがることで悩んだり、もやもやした気持ちになっている。
でも本当は、自分の中に「ある」ものは羨ましいと思っている相手が持っていないものなのかも知れない。
自分の中に「ある」ものが、本当は大きな強みであり宝物である。
そのことに気がつけた時、それまで感じていた世界がガラッと変わることがある、それを伝えたいと心から思うようになりました。
そして、パンデミック下の不安感や焦燥感が大きい中でも、自分の内側を整えさえすればメンタル的な安定は得られる、それも伝えたい、そのためのツールとして、数秘術は使ってもらえると思ったのです。
また、勉強し直すにあたり、今でこそメジャーになりつつあるオンラインでの受講に挑戦したことも、大きな一歩になりました。
まだまだオンラインで家にいながらレッスンを受けたりする人は少なかったですし、オンラインで講座を開講している人も今より少なかったのです。
このスタイルは今後の自分の基盤になるのでは、そう感じて家にいながら学べるオンライン講座に力を入れていくことに決めたのです。
ただの知識を伝えるだけではなく、私自身がこれまでの人生で感じたこと、身につけた物事の捉え方なども盛り込んだ鑑定にすることで、心から喜んでもらえるようになり、口コミで広がり、連日のように鑑定をさせてもらえるようになりました。
そうなると、もっと厚みのある鑑定をしてクライアント様に還元したいと思うようになり、数秘術に加えて「マヤ暦」というものを学ぶことになりました。
マヤ暦で溶けた母親へのわだかまり
マヤ暦というのは、数秘術と同様に、生まれた日をもとにして古代マヤ人が使っていたカレンダーを使って各個人の特性や運気の波を読み解くものです。
最初、マヤ暦に興味を持ったのは数秘術と同様に「生年月日だけで占える」という特徴を持っていたからだけに過ぎませんでした。
クライアント様の手間を増やすことなく、さらに厚みのある鑑定ができるなら良いじゃない!
くらいの軽いノリで学び始めたものでした。
ですが、マヤ暦で見られる自分と周囲の人との「関係性」をよく見るようになった時に、私と母のハードルの高い親子関係の謎が解けたのです。
だから母は私を手元に置いておくことにこだわり、コントロールしたかったのか!
母には母なりの苦労や悩みがきっとあったのだろうな
自分だけのモノサシで、自分だけの視点で母のことを、起きた出来事を見ていたんだな
そんなことがストンと腑に落とせるようになり、母に育てられたからこそ、子供たちの発達の問題にも真摯に向き合える母親になれたのだと気がつくことができたのです。
母は私が欲しいものをくれる人ではなく
私という人間の器を大きくするために欠かせない大切な人だったのです。
いつも母に愛して欲しい
理解して欲しい
その思いで満たされていなかった小さな私の心は、ほんの少しだけ見方を変えただけで浄化され、私の心は愛で満たされていきました。
あんなに母のことが怖くて、絶対に逆らえなかった私はいなくなりました。
今では母に対して何も思わなくなり、思ったことを言葉にして伝えられるようにもなったのです。
それと同時に、母という存在に心から感謝できる私になりました。
こんな自分になれる日が来るなんて、本当に信じられませんでした。
この経験から、この知識を広く届けられるようになりたい、と強く思うようになりました。
人の悩みの9割は人間関係である
その中でも親子の悩みの占める割合というものは大きく、特に母との関係によって大人になっても私のように行き詰まっている人が多いことに、これまでの鑑定から感じていました。
だからこそ、多くの人の救いになり、光となるものじゃないかと確信できたのです。
そのためには、やはり鑑定だけではなく、講座として広く人に伝えていくことが大切だと思い、オリジナルの講座構築にも取り掛かるようになりました。
数秘術の鑑定や講座をしていた時には、協会に属していたため自分が本当に伝えたことを伝えられずに協会の規定に合わせなければならず、モヤモヤした思いも抱えていました。
協会から独立することは大変勇気の必要なことでしたが、自分の道を自分で作ると決めて、数秘術マヤ暦鑑定士、講師としての道へ進むことになったのです。
そして、ただ知識を伝えるだけの講座ではなく、鑑定士として活躍できるプロ養成の講座も構築することにしました。
かつて貧乏を経験した私。
与えられるのを待つのではなく、自分から立ち上がる大切さを学んだ私。
そして、命の時間には限りがあるということを、病気から学んだ私。
その体感から、自分の知識と経験を糧に自分の足で立つことができる人を増やしたい!
誰かに頼らずに自分でも頑張ればこんなにも世界が輝くんだ!ということを感じられる人を増やしたい
限られた命という時間を満たされたと実感できる人を増やしたい!
この思いを込めた養成講座は開講すぐに満席、増席、満席となる大反響がありました。
自分の足で立ちたい、鑑定という仕事でどなたかのお役に立ちたい
そんなことを思う女性が多いのだと実感した出来事でもありました。
もっと生徒さんたちに還元していきたい!
数秘術、マヤ暦を学んでくれる生徒さんが増えれば増えるほど、もっとお役に立てる知識やワードはないだろうか、と考えるようになりました。
その考えを元に、風水、九星気学、四柱推命、そして、タロット・オラクルカードなど様々な占術を学びました。
また、脳科学や心理学なども学び、人の心に寄り添うということがどういうことなのかも学ぶ努力をも重ねてきました。
それだけではなく、アニマルコミュニケーションという動物さんたちと意識を繋いでメッセージをキャッチするということを学ぶことで、見えない世界のことを学び、目に見えている世界だけでは説明がつかないものがあると確信を得ます。
私がここまで生きてこられたのは、生かされてきたのには意味があった
自分の内側(精神)が常に外側(現実社会)を作っているのだ
ということを強く実感できるようになったことで、講座や鑑定でもより人間として大切なことをお伝えできるようになりました。
占術は人間学です、ということを常に生徒さんに言っていますが、それはこの考えの元から出ている言葉です。
その結果、自分が何者なのか分からなくなりました笑。
肩書きなんてなんでも良いじゃん、楽になれる人が増えたら良いじゃな〜い、ということで今では
総合鑑定士
と名乗っています。
数秘術・マヤ暦・四柱推命・タロットの各講座に加えて、アニマルコミュニケーションなども加えた総合鑑定をしています。
これが、一見すると何者なのか分かりにくい「総合鑑定士・いとうゆみ」の生態です。
各講座の特徴などは別記事にまとめています。
是非そちらもご覧いただけたらと思います。